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梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。③

高度情報化社会の流れの中で、総表現社会になりつつあるということについて、
前回大変うんうん頷いたわけですが、

その部分以外で、ブログに関して、共感したのが次の部分。

「ブログは個にとっての大いなる知的成長の場」であるという内容。(164ページ位)


ブログ書いておきながらこんなこと言うのははばかられますが、
僕のもともとのスタンスは「ブログなんて書く人の気が知れない」でした。苦笑

というのも、「石」の99パーセントにどうしても目が言ってしまい、
ルサンチマン(≒鬱憤?)の排泄であり、決して表現などではない!と思っていたからです。
(最近はもっとゆる~い捉え方になってますけどね。

そもそもネット内の情報なんて検索して精査してアクセスするわけだから、
基本1%の情報にピンポイントでアクセスできるので、石情報に自分が惑わされることもない。

さらに情報精査しないでアクセスするブログ情報は、
例えば友人のものだったりするわけだから、
それは逆に瑣末な情報から執筆者の人となりを想定させる効果があり、
「石」情報も必ずしも「石」ではなくなってしまう。


で、まぁ、色々とわけあってブログを書き始めて、
しかもできる限り日々更新すると(誰に誓うでもないけど)決心し、
毎日書いてみると当然ながら「ネタ切れ!!」するわけで、
それでも、些細なことでもひねり出しながら書いていると不思議なもの。

以前は適当に読み流していた本なんかでも、「何かしらのネタはない!?」と
兎視眈々と情報収集しようという風に思考が傾いていって、
アウトプットするために以前よりも貪欲にインプットするようになりました。

そういう体験もあったので、
「個の知的成長の場」
という表現はなかなかしっくり来ました。

この投稿するのにも、一度読みきった本(=『ウェブ進化論』)
を再び開いてる位ですからね。笑

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。②

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。②

この本の第4章の「ブログと総表現社会」でブログについて色々と書かれています。


ちなみに海外だとオピニヨン発信の場として使われるブログも、

日本だと日記的に使う人が大半を占めていて、それで当然のことながら

ブログ数やエントリーの数も多いけれども、玉石混交――。


しかし、以前であれば、プロフェッショナルである物書きにしか許されてなかった、

情報発信を皆が手軽にできるようになった。

その多くは「石」なわけだが、下手したら99%は「石」かもしれないが、
残りの1%の「玉」――それもネット以前の社会であれば、
そういう素質がありながら、
もしくは、自分の専門分野があり、執筆のために雑食のごとく分野勉強する俄か専門の職業ライターさんよりも
はるかに一家言ある方がネットを通じて情報発信できるわけです。

当然ながらそれは有益な情報であり、それが仮に1%あれば、
母体数がそもそも多いわけですから、大変な数の有益が情報が発信されることになります。

それは素晴らしいことですね。


・・・・・・
なんかこれって写真でも似たような感覚に陥ることがあるのですが、
それは例えば報道の写真です。

今や携帯カメラに(そこそこ)高性能なカメラがついて、日本人全カメラマン的な状態です。
現場にいち早く到達し、訴求力のある写真を撮影する、
プロの報道カメラマンの価値がもちろん損なわれるわけではありませんが、
本当の決定的な瞬間――それも世の中の所かしこで起こっている決定的な瞬間の場面に
決して数の多くないプロの報道カメラマンが、居合わせる可能性は決して高くありません。
(それが叶って決定的な瞬間を捉えると、ピュリッツァー賞を取ったりするわけですよね。
 …ちょっと語弊がありますけど、今回はご容赦を!)

それが日本人が全員「カメラマン」なら、決定的な出来事が起こったときに、
それが――たとえ稚拙でも――記録される可能性は極めて高くなります。
(報道は「きれい」よりも何よりも「写っていること」が重要ですから)。


これはブログで総表現社会になっている構造と同じことが写真の報道(...映像もそうかな?)についても言えるよなーと思った次第です。

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梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読みました。

そうですよ。今更ですいませんね。

結論から言えば思ったよりも全然面白かった。


僕の知り合いの結構な人が持ってたし、
その人たちが結構にIT系の人たちだったなんてバイアスを差し引いても、
この本が結構なベストセラーだからなんですよね??


『ウェブ進化論』の読者としては、
僕は比較的にこの本を堪能できた部類の人間でしょう。


この中にはWEB2.0の話も割と出てくるのですが、
Googleを初めとするテクノロジー系の会社が提供する技術を享受して、
仕事をさせていただいているような立場の人間でもあるので(僕は)、
話題の大半を「他人事」ではなく「自分事」として捉えることができたということは大きいでしょう。


日常的なレベルの話で一例挙げるなら、
私は、会社のパソコン、家のパソコン、モバイルノートパソコンを
公私に渡って使っているのですが、
その際、いつも割りと困ってしまうのが、
例えば、作業しているファイルのバージョン管理や情報の集約先です。
ですので『ウェブ進化論』の言うところの「パソコンのあちら側」に、
ファイルやデータを集約させることで、ネットがつながる場所であれば、
どこからアクセスしても常に同様の環境で作業をすることができるので便利です。

もちろんネットが常に使えるわけでもないので、完璧に集約できているわけではないのですが、
情報収集においてのGoogeノート(最近使い初めました)やGmailは大変有益だな~としみじみ思います。

『冷血』(トルーマン・カポーティ)

トルーマン・カポーティの『冷血』を読み終わりました。


以前、カポーティという映画を見たのですが(以前のエントリー)、
その映画の中でフィリップシーモアホフマン演じるカポーティが
取材・執筆している作品が上記の、『冷血』でした。


1965年発表の作品です。
実際に起こった殺人事件を綿密に取材して、作品にしたというものです。

まず何よりも脱帽したのが、
文章一つ一つに膨大なデータの裏づけがあるだろうことが分かることです。


今でこそ、ノンフィクションジャンルは色々な作品がありますが、
(ちなみに沢木耕太郎の初期作品は大好きです)、
当時にしてみるとかなり真新しいものだったらしく、
以降、カポーティの縮小再生産のようなジャーナリズムが増えたそうですが…。


『冷血』を読んでみたらそれもなんとなく納得。
カポーティ本人がジャーナリズムというよりも、ノンフィクション・ノヴェルと本作品を位置づけているように、
ドキュメンタリーというよりもやはり「物語」です。


逆に、事実とその綿密な取材がベースであり、
最後のクライマックスと終焉を演出を「物語れる」からこそ
生み出せるリアリティ(≠真実)があるのでしょう。


そういった面において厳密には、ドキュメンタリーではないように思えますし、
それゆえ、カポーティに影響を受け、ドキュメンタリー作品に向かった記者が、
(綿密に取材するということは除いて)『冷血』に引きずられてしまえば、
陳腐なセンチメンタルに陥ってしまった作品が量産されてしまったことも不思議ではないかもしれません。

以後、死屍累々の作品を生み出す潮流となった一種の問題作は読む価値ありですよ。

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